北アルプス西穂高岳・独標(どっぴょう)(2701メートル)付近で1967(昭和42)年8月1日、松本深志高校(松本市)の生徒ら計46人が集団登山中に落雷に遭い、生徒11人が亡くなった事故から53年を迎えた1日、同校の慰霊碑前で追悼式があった。今年は新型コロナウイルスや付近の群発地震を考慮し、まとまっての慰霊登山は見送った。遺族や同級生、在校生ら100人以上が参列して冥福を祈った。
事故発生時刻の午後1時40分ごろ、独標の方向に向かって参列者全員で黙とう。順番に慰霊碑に手を合わせながら若き犠牲者たちを思い、悲しい事故を忘れないと誓った。
歳月が過ぎても「多くの友達が来てくれてありがたい」。同級生(69)=同=は、今年の慰霊登山中止を残念がりつつも、来年以降は「体力が続く限り慰霊に登りたい」と話した。
(信毎WEB版 2020年8月2日付)
昭和42年8月1日に松本深志高校の生徒が落雷のため に西穂高独標で遭難,11名が死亡,13名が重軽傷を負っ たことは我々の記憶に新しいことである。高校では将 来再びこういうことを繰り返さないための記念事業とし て,慰霊碑の建立,追悼文集の刊行,調査報告の刊行を ー計画された。
そしてその「追悼文集」が上記の題名で昭 士和43年8月1日,ちょうど遭難1周年に発行された。
全体はA5判484ぺ一ジ,ほかに写真判56ぺ一ジの大 きなもので,第1部悲劇の記録,第2部,面影をしの ぶ,第3部西穂落雷遭難調査報告概要となっている。
第 1部(152ぺ一ジ)と第3部(78ぺ一ジ)を通読してみ て感じたことは,分担執筆された同校の先生方が,つと めて客観的な記録を後世に残そうとして苦心されている気持が紙面ににじみ出ていることである。
そしてリーダ の先生方の判断や行動の記録はありのままを詳細に記 し,問題点は問題点としてさらけ出して,謙虚に批判を 受けようという態度であるのが気持ちがよい。
そしてこ の大きな書物を1年間で印刷刊行された関係者の努力に 30 も敬服する。 「調査報告」は昭和44年3月末を目標として目下準備 中の由であるが,この「追悼文集」だけでも事故の大要 はわかる。
ことに西穂稜線上におけ当日の天気変化の 模様は,第1部の中の「運命の雷撃」 (引率教師と同行 生徒の手記)に詳しい。
人体への落雷被害は,こういう 書物の性質上ことさらに簡略化されたものと思うが,将 来刊行予定の「調査報告」ではそういうが,将来刊行予 定の「調査報告」では,そういう資料と,またそれと関 連して所持品関係の被雷資料も十分に収録して貰いたい と思う。
興味のある記載を引用すると,「また背中のザ ックの中のカメラ,水筒,食器等にはげしい電流痕跡が あって,かえって上半身を守られて助かったのではない かと思われる例もある」とある。
購読希望の向きには実費800円(荷造送料100円)で 頒布できるそうであるから,希望者は松本市蟻が崎3の 8の1,松本深志高等学校あて申込まれるがよい。
(注)現在は在庫がありません。
松本深志高落雷遭難から40年
20人が追悼登山 北アルプス・西穂高岳独標付近(二、七〇一㍍)で一九六七(昭和四十二)年、集団登山中の松本深志高校(松本市)二年生が落雷に遭い、十一人が死亡、13人が重軽傷を負った遭難事故から一日で四十年がたった。現場へは、同校の同窓生や坂巻道弘校長らが慰霊登山をし追悼。同校でも、遺族や同期生らが慰霊碑の前で手を合わせた。
午前十一時すぎ、独標東側斜面の岩場で行った追悼式には、県外に住む同期生を含め、二十人近くが参列。黙とうの後、同校に伝わる「祝記念祭歌」を静かに合唱した。富士山までも見渡せる真っ青な空に、「四十年前の落雷が信じられない」とつぶやく人もいた。
今回が十四回目の慰霊登山者の一人は事故の際、重傷を負った。現在は母校の社会科教師で、山岳部顧問も務め、部員三人と三十一日から入山した。
当時、四十六人の登山隊の最後尾近くを歩き、独標北側斜面の鞍部(あんぶ)近くで落雷に遭った。背中から右足にかけて雷が走り、はじき飛ばされた際に右耳を裂傷。後ろに居た男子生徒は死亡、前に居た教師は重体となった。
生き残った幸運をどう生かせるか自問してきた-と鈴岡さん。「山岳部の生徒が昨年かち追悼登山を始めた。彼らが事故のことや命の大切さを受け継いでくれることが何よりうれしい」
同期生(56)=仙台市=は同期の写真と同校創立百周年の記念DVDを持参した。「みんな元気にやってるよーと、報告するのが私の役目。これからも慰霊登山を続けたい」と涙をふいた。
写真省略:松本深志高校の落雷遭難事故から40年。北アルプス西穂高岳独標で行われた追悼式=1日午前11時20分
今も語りかける11人の仲間
一日午後一時半。松本深志高校の西穂遭難慰霊碑前で、今年も遺族や同窓生、在校生ら約百人が参列して慰霊祭が開かれた。十一人の命を奪った落雷遭難から四十年。この日参列した遺族は八家族十一人。亡くなった生徒の親たちも多い。引率した教師たちも、当然現役から退いている。高校二年で亡くなった十一人と同期生だった私も慰霊祭に参列した。
あの日、悲報を知ったのはタ方。激しい雷雨で家に飛び込み、テレビのスイッチを入れる。友人の名前が画面に流れていた。学校に駆けつける。重苦しい雰囲気の中、新たな情報は入らず、最終電車で大町市の自宅へ引き返した。
翌日は朝から学校に待機。午後二時ごろ、自衛隊ヘリでシュラフに包まれて運ばれてきた仲間の遺体を、担架に乗せて校内に運んだ。
収容できなかった三人の遺体を除く八人の遺体が並ぶ講堂で夜の「お別れ式」。激しい雨。雷が学校付近を襲い、電灯が消えた。女生徒の悲鳴…。長男を亡くした(81)=松本市蟻ケ崎=は「雷を連れてきた。あの日を忘れることはない」と話す。
十年前に夫に先立たれ、いまは一人暮らしだ。「『おなかがすいた』という声で、寝床から跳ぴ起きたことがあります。夫ではなく、亡き人の声で・・・。まだあの子は成仏できないのだと思いました」
私は同級生であり、同じ部活動の仲間だった。私たちのクラスから登山に参加したのは七人。五人が死亡した。重傷を負った一人は進級できず、残る1人は翌年、命を絶つた。七人の級支全員が私達と一緒には卒業できなかった
担任で登山の引率者(73)=松本市筑摩=は、私たちを卒業させると、飯田高校に赴任。その二年後には三十代半ばで教職から身を引いた。「場所は変わっても、子どもたちを教えていると、亡くなった生徒の顔とダブって見えた。そんな気持ちで教師を続けるわけにはいかなかった」。いまは幼稚園長として、幼い子どもたちを見守る。
登山に参加したある仲間は「忘れているよ」と、「あの日」を語らない。悲惨な現場、数秒の差で分かれた生と死…。四十年の歳月は流れても、「あの日」は重くのしかかる。
「ポッカリ空いた胸の穴は埋められません」と堀江さん。命のはかなさとその大切さ。親たちの涙は悲しく、十一人の仲間たちが少年のままの姿で語りかけてくる。
写真省略:西穂高遭難慰霊碑に献花し、手を合わせる遺族=松本市の松本深志高校
松本深志高生の西穂高岳落雷遭難
1967年8月1日午後1時40分ごろ、松本深志高2年生の集団登山パーティーが、西穂高岳山頂から下山途中の独標(第1独立標高点)で落雷に遭い生徒11人が死亡、生徒と引率教師13人が重軽傷を負った。集団登山に参加したのは、引率教師5人を含む計55人だったが、西穂に登頂したのは計46人。集団登山のあり方や気象判断をめぐってさまざまな議論があったが、県警は引率者の過失責任は問わなかった。
信濃毎日新聞 掲載記事一部引用 |
平成19年08月02日(木)付 |
< 独標に祈る > Facebookから一部引用。
1967年(昭和42年)8月1日午後1時30分頃、その大惨事は起こりました。
西穂高岳独標で松本深志高等学校2年生のパーティーが雷に撃たれ、11名が死亡・13名が重軽傷という登山史上類を見ない落雷事故が発生したのです。
この日の西穂高岳周辺の天気は午前10時頃までは快晴。教員5名を含む55名のパーティーのうち46名が西穂高岳に登頂しましたが、登頂直前に天候が急変。集団登山であったために退避する場所もなく、急いで下山する選択をしましたが、間もなく雹(ヒョウ)が降り出しました。
激しい雷雨に見舞われる中、やっとの思いで独標までたどり着き、パーティーの先頭集団が独標を越えて南側斜面を下り始めた時、轟音と共に雷が独標に落ち、北側斜面を登っていた後続の人達が雷に撃たれました。
一度の雷で、どうしてこれほど多くの犠牲者が出てしまったのでしょう。その原因のひとつとして、集団登山であったことが挙げられています。
人間の体は大部分が水分でできています。すなわち人間そのものが非常に電気を通しやすく、その人間が列をなしていたために、電流が人から人へと流れてしまったことが一因とされています。
また、この事故の犠牲者の中には、落雷の衝撃で吹き飛ばされ、滑落によって亡くなった方もおられます。人が飛ばされるほどの凄まじいエネルギーを持った雷であったことも、犠牲者を増やすことに繋がりました。
この事故の後、松本深志高校では事故調査委員会を設け、立派な事故調査報告書を作成しています。
山の雷は大変恐ろしいもの。この事故で犠牲になった方々の死を無駄にしないためにも、教訓を生かし、悲惨な事故を繰り返さないように努めなければなりません。
この事故から学んだことを風化させないようにしていかなければならないと思っています。
( 写真省略・コメント文書 :Facebook 粟 澤 氏 )
松本深志高校の追悼登山について掲載しました。
事故からもう53年が経ち四半世紀が過ぎました。当時、同級生は初めて購入したGパンを喜んで履き早朝でかけましたが、帰らぬ高校生となりました。私はGパンを今も履きません。母は同級生のお母さまを慰めに松本まで足を運んだのを覚えています。夏休みやお盆が近づくたびに悲しく思い出されます。
合掌
2020年8月5日