長野県内の山岳、教育関係者らでつくる「信州の学校登山をすすめる会」は12月10日、松本市内で会合を開き、県や市町村の教育委員会に対して「1年に1度は故郷の山に登ろう」などと呼びかける提言書を提出することを決めました。
学校登山は一般登山に比べて事故が少ない、登山は「一生の思い出となり人生を変える。」といった内容も盛り込んで提言書をまとめる方針です。
新型コロナウイルスの影響などで学校登山の実施校は減少傾向にあります。新型コロナへの対応や、安全意識の高まり、教員の技術不足といった社会情勢を鑑み、日帰りの軽登山を含めて学校登山を推進する方向性も確認しました。
多くの信州の小中学校に「学校登山」を実施してもらえるように呼びかけて、信州の学校登山は「教育文化財である」ことを、次世代の子ども達のために継続維持していきましょう。
我が母校である通名中学校(現・長野市篠ノ井東中学校)の同級生が、7月12日付信濃毎日新聞に投稿した写真と記事が掲載されていました。
昭和39年7月撮影の写真も掲載され、後列右から三人目が私です。
投稿者は私の右隣です。懐かしい写真であり友人だった人物の投稿に驚きです。
当時は信州の遠足は登山です。
中学時代は白根山、燕岳と学校登山でした。
高山病で気分の悪くなったことは覚えています。
それでも全員が登頂できました。
信州の学校登山は明治中期、体育、理科、地理の授業の進め方を巡って試行錯誤した長野師範出の教員らが、山国の地勢を生かし、一体的に教える方策として編み出しました。
「自然に帰れ」を唱えたフランス人思想家ルソーに共鳴した松本市出身の教育者沢柳政太郎も大正初期以降、中房温泉を拠点に夏休み中、東京・旧成城中生に燕岳や槍ケ岳を複数回登らせ、これが学校登山のルーツとなったのです。
その燕岳への長野県内中学の登山は今夏、ゼロだったそうです。
わたしは、長野県篠ノ井市の通名中学校に在学のころは、燕岳、白根山などに中学校で登りましたが、同級生が西穂高岳独標で遭難したことが残念です。
西穂落雷事故から53年目 独標へ祈る 松本深志高校 - 名古屋長野県人会公式ホームページ (naganokenjinkai.com)
また、1913年(大正2年)8月26日に長野県中箕輪高等小学校(現・同県上伊那郡箕輪町立箕輪中学校)の集団宿泊的行事として実施された木曽駒ヶ岳集団登山における気象遭難事故もあり、遭難現場に「遭難記念碑」を設置し、事故のことを忘れ得ないようにという思いを込め現在も箕輪中学校をはじめ上伊那地域の中学校の伝統行事として2年生が木曽駒ヶ岳登山へ慰霊登山をしています。
【きくち・としろう】 山岳ジャーナリスト。1935(昭和10)年、東京生まれ。早大卒業後に信濃毎日新聞社に入り、64年のヒマラヤ・ギャチュンカン登山報道で日本新聞協会賞。同社常務松本本社代表などを務めた。「山の社会学」「ウェストンが来る前から、山はそこにあった」など著書多数。2021年に「信州の学校登山をすすめる会」設立。松本市在住。