田中芳男(たなかよしお)って知っていますか?
日本博物館の父であり長野県飯田市の出身です。
飯田のリンゴをかじりました。
NHK朝ドラ「らんまん」植物学者里中芳生のモデルが田中芳男で、
朝ドラの主人公の植物学者「牧野富太郎」と親交があったのです。
今田中芳男(役者:いとうせいこう)が「らんまん」に出ています。
飯田市中央通りに生まれた田中芳男(1838~1916年)は、近代日本の草創期において博物館・博覧会・図書館・動物園の創設に深く関わり、農林水産業の発展に尽くした人物です。
江戸幕府が初めて公式に参加したパリ万国博覧会に派遣された体験をもとに氏は、明治維新後の農林水産業における学術文化と産業振興に貢献しました。農商務省の初代農務局長に抜擢され、現在の東京大学農学部の発案と創設に関わりました。
このほかにも、共進会の開催、ソメイヨシノの発見、冷凍冷蔵庫の紹介、白菜・アスパラ等輸入植物の栽培試作等、氏の遺した業績は、近代日本の草創期にふさわしく多彩で実用性を帯び、その名声は各界において全国的に高まりつつあります。
平成20年は氏の生誕170年にあたり、飯田市民を中心とした浄財による「田中芳男の胸像」と「子ども向け小冊子」が制作される計画です。胸像は国立科学博物館へ寄贈されるほか、飯田市美術博物館に展示される予定です。
地域の産業振興や経済活性化において「農業」が注目を浴び、多様な組織・人々が「農業」を考える中で、今、彼の出身地にふさわしい農業経済モデルを築くチャンスです。
田中芳男 の生涯(生い立ち)
1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏[3]の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。
隆三は1834年に長崎に留学して蘭学を修めており、医学のみならず本草学、舎密学(化学)などにも関心が深く、芳男もその影響を強く受けることになった。
また、隆三は芳男に漢学を身に着けさせ、特に「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」と教え諭した[4]。兄が病死したため、家督と医業を継ぐことになった。
1856年(安政3年)秋、名古屋に出て尾張藩御典医で博物学者としても著名であった伊藤圭介の門下に入り、千村五郎・柳河春三らと共に書生として種痘などの西洋医学を身に着けたほか、博物学や本草学を学んだ。しかし、1858年には故郷の飯田に帰った。ただ、自宅で本草学や博物学の研究を行ったり、時には名古屋に出て伊藤圭介のもとで学問をしていたという。
飯田市街地にある田中芳男顕彰碑の傍らにあるビワの1品種「田中」。田中芳男が長崎で食べたものを持ち帰り、自宅で栽培したことが始まりとされ、現在も愛媛県や千葉県等で栽培されている
農商務省博物局長を務めた後、省を退職し、元老院議官、貴族院議員などの任に就く。