大鹿歌舞伎は300余年前から、大鹿村の各集落の神社の前宮として舞台で演じられ、今日まで伝承されてきました。歴史の変遷の中で、江戸時代から明治時代には、歌舞伎上演の禁令は厳しく、その弾圧をかいくぐりながら、村人の暮らしの大事な核として脈々と受け継がれてきました。
大鹿歌舞伎の上演が無かったのは、終戦の年などわずかであったことを考えると、大鹿村の地芝居は隔絶された立地条件とめまぐるしい社会変化の中で生きてきた村の人々の心の拠り所であり、祈りに似たものであったといえます。
大鹿村は、平安時代から荘園として開発されており、大河原鹿塩という所領の名で「吾妻鏡」にも登場しています。重要文化財に指定されている長野県最古の木造建築である福徳寺薬師堂にそのその歴史の古さが象徴されています。隔絶されたかに見える山間地ですが、古道を通じて都の文化がこの村にも入っていたことが伺われます。
また、伊那谷は、民俗芸能の宝庫と言われるほど、多くの祭りを伝え、歌舞伎・人形芝居などが盛んな地域であり、各地に舞台も多く建てられ、三味線を弾き、浄瑠璃を語る人々も多かったといわれています。
大鹿歌舞伎が受け継がれてきた背景には、こうした村の人々の歌舞伎に対する愛着の土壌が豊かに育っていたことが挙げられます。
大自然に包まれ、解放された空間の中で、まさに古来の観劇スタイルそのままに、境内にゴザを敷き、ご馳走を食べ、酒を酌み交わしながら芝居を楽しむ。
大きな見得や力のこもった所作が続くと、声援にも思わず力が入ります。
客席がどっと沸き、舞台と客席が一体となり、地芝居の何ともいえない魅力が生まれます。
芸能の原点である「心と心が触れ合う場」を生み出す大鹿歌舞伎の舞台には、熱く、豊かな地芝居のいのちが脈々と息づいています。
全国各地の地芝居を伝える村の中でも、大鹿村はその舞台の数の多さで抜きんでています。かつて、小さな集落の氏神の祭りに、わずかな戸数の集落だけで歌舞伎を上演できたといわれています。多くの人が歌舞伎を演じ、浄瑠璃を語ったこの村では、幕末から明治にかけて村内に点在する神社やお堂の境内13カ所に芝居専用の舞台が、神社の前宮などの名で建てられたという記録があり、現在は7つの舞台が残っています。
近年、春と秋の定期公演でもっぱら使用されているのは、大磧神社の舞台(下市場)と市場神社の舞台(塩河)の2つです。いずれも間口六間・奥行き四間の舞台で、回り舞台があり、上手に太夫座が付設されています。
耕地の少ない急峻な山々に囲まれたわずかな平地に生きる村人は、食を切り詰めてまで歌舞伎のための舞台を建立してきました。当時わずか数十戸の集落にこんなににも舞台が造られたのは驚きです。
今も残るこの舞台には、大鹿村の人々の心意気と底知れないエネルギーが受け継がれています。
全国各地の地芝居を伝える村の中でも、大鹿村はその舞台の数の多さで抜きんでています。かつて、小さな集落の氏神の祭りに、わずかな戸数の集落だけで歌舞伎を上演できたといわれています。多くの人が歌舞伎を演じ、浄瑠璃を語ったこの村では、幕末から明治にかけて村内に点在する神社やお堂の境内13カ所に芝居専用の舞台が、神社の前宮などの名で建てられたという記録があり、現在は7つの舞台が残っています。
大鹿歌舞伎についてのお問い合わせ先
大鹿村役場
教育委員会
〒399-3502
長野県下伊那郡大鹿村大河原391番地2
電話番号:0265-39-2100
Fax 番号:0265-39-1023
メール :info@vill.ooshika.lg.jp
中央構造線ってなんですか?
「中央構造線」は、関東から九州に伸びる長大な断層です。
「中央構造線」のことを英語でMedian Tectonic Line(略してMTL)といいます。
中央構造線をはじめに発見したのは、ナウマン象の名前の由来となったドイツ人地質学者エドムント・ナウマンです。ナウマンは、明治時代に日本の地質調査をしていて、西南日本を縦断する大断層を発見し、「大中央裂線」と名付けました。さらに、この大断層を境に日本海側を内帯(ないたい)、太平洋側を外帯(がいたい)と呼んで区別しました。
中央構造線は、長大な断層です。「断層」というのは、大地の中のズレ目をいいます。「構造線」は、「断層」のうち、たくさんずれ動いた結果、両側に違う岩が並んだ、異なる地質の境界線になっている断層をいいます。
中央構造線、糸魚川-静岡構造線、フォッサマグナは全くの別物です。
「中央構造線」は、日本がまだアジア大陸の一部だった頃に誕生した長大な断層です。海溝と平行に関東~九州へ続き、西南日本の地質構造を大きく二分しています。1億年の歴史の中で、何度かの活動期があり、その度に、異なる方向にずれ動いてきました。
「中央構造線」は、250万年前ごろから始まった現在の地殻変動を起こしている力を受けて、現在一部の区間が活断層になっています。
「フォッサマグナ」は、「大きな溝」という意味です。断層ではなく、本州中央部の幅のある地帯です。日本がアジア大陸から離れ、現在の位置に移動してきた時期以降の地層で覆われています。北部と南部では、でき方が異なります。「糸魚川-静岡構造線」は、「フォッサマグナ」地帯の西縁の断層です。北部フォッサマグナの西縁の「糸魚川-静岡構造線」と、南部フォッサマグナの西縁の「糸魚川-静岡構造線」は、もともとは別の断層です。
中央構造線は長い間にいろいろな動きをしてきた古い断層です。大陸時代にできた地質の境界としては、1本の断層ですが、日本列島になってからは、地域ごとに地殻変動を起こす力の受け方が異なり、別々の断層になっています。一部の地域では、古傷が再活動し、現在の時代に繰り返しずれ動く活断層となっています。そのため、場所によっては、近いうちにずれ動いて地震が起こるかもしれません。ただし、数日、数ヶ月、数年といった時間スケールでの「短期予知」は不可能です。
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