JR飯田線を切り開いたアイヌの測量技師で、川村カ子ト(かわむら・かねと)という人物を知っているだろうか。
今から90年程前、長野県から静岡県を経て愛知県へとつながる、現在のJR飯田線の建設に尽力した北海道・アイヌの測量技師だ。
測量技師として各地で活躍、アイヌ文化の普及・啓発にも寄与川村 カ子ト(かわむら かねと)
生没年:1893年~1977年 / 北海道旭川市
明治期の北海道が激変する環境下で、鉄道に憧れ、鉄道の測量を仕事としました。北海道各地や、困難を極めた本州の長野県・天竜峡、樺太、朝鮮半島などで測量の仕事を成功させました。
後に父親のイタキシロマが1916年に開設した「アイヌ博物館」を継ぎ、測量の仕事で得た資金を投じて「川村カ子トアイヌ記念館」として発展させました。アイヌ文化の普及、啓発に努めて、旭川市の発展にも寄与しました。
「川村カ子トアイヌ記念館」リンク
【北海道】100年を超える歴史がある私設の「川村カ子(ネ)トアイヌ記念館」(旭川市)
施設URL(外部リンク)/http://k-aynu-mh.jp/
秘境駅の集まる飯田線は、中央アルプスと南アルプスに挟まれた長野県の伊那谷から、天竜川がつくり出す峡谷地帯を経て、愛知県東三河の平野を走り抜ける195.7キロメートある。
近年、この路線が注目されているのが、人里離れた場所にあるいわゆる“秘境駅”だ。秘境駅を巡るための観光列車「秘境駅号」も走り、鉄道ファンや観光客から人気を集めている。
川村カ子トは、幼い頃に見た蒸気機関車に憧れ、鉄道の仕事を志した。
小学校を卒業後、鉄道測量の助手として働き始めた。努力して勉強を重ね測量技師となり、北海道や青森などで活躍した。
昭和3年、愛知県と長野県をつなぐ「三信鉄道」の測量をするため信州に招かれた。
現在のJR飯田線の前身は、私鉄線だった。
明治から昭和初期までに、愛知県内では、東海道本線とつながる現在の豊橋駅から北に向かって「豊川鉄道」と「鳳来寺鉄道」がある。
長野県内では、中央本線とつながる辰野駅から南に向かって「伊那電気鉄道」が徐々に線路を延ばしていた。
そして残された愛知県の三河川合駅と長野県の天竜峡駅間、67キロメートルの開業を目指したのが「三河」と「信州」をつなぐ「三信鉄道」(さんしんてつどう)だった。
太平洋側の愛知県へとつながる鉄道は、とりわけ内陸の信州人にとっては悲願であった。
当時電力の需要が高まる中、ダム建設が天竜川流域で持ち上がり、資材輸送のためにも三信鉄道の早期開通が求められた。
天竜川やその支流の谷が深く切り込んだ断崖絶壁が続き、鉄道の設計に不可欠な測量作業すら手をつけられずにいた。そんな中、三信鉄道は、北海道でどんな危険なところでも測量をやってのけた腕のよい測量技師がいると聞き、カ子トを招いたのだった。
鉄道建設における測量作業は、設計図を作るために欠かせない工程で、重い機材を持って険しい山に徒歩で分け入り調査をする必要があった。
カ子トが率いる測量隊は日々、道なき道を進み、徒歩でたどり着くのが困難な場所は、舟を使って天竜川から岸に上陸することもあったという。
カ子トは数々の苦難を乗り越え、自身の任せられた区間の工事をやり終えると、ふるさと北海道へ帰った。
合唱劇「カネト」について
飯田線中部の前身「三信鉄道」の建設時に、測量技師・現場監督を務めた、アイヌの技術者「川村カネト(川村カ子ト)」氏の生涯を題材とした合唱劇です。
制作のきっかけは、1991年、豊橋市の市民合唱グループで合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」にとりくんだとき、作曲家(当時:数学教師)の藤村記一郎さんに「カネト-炎のアイヌ魂」(沢田猛著:ひくまの出版)を紹介したことからでした。
カネトさんの生き方に感動した藤村さんは、この作品を合唱劇にできないかと、さっそく行動を起こしました。
その後、さまざまな事情から創作が中断しましたが、飯田線全線開通60周年にあたる1997年に創作を再開。
ほぼ毎月1回の例会を開き、さまざまな学習討論を重ね、何度もの書き直しを経て、1998年11月に1年をかけて台本完成へこぎつけました。
〒060-8588
札幌市中央区北3条西6丁目
TEL : 011-204-5122
コメントをお書きください